「迷惑」は、読んで字のごとく、迷い惑うことで、本来は、自分自身の行為に対し、どうしていいか分からなくなることを意味していました。 次第に、他人の行為によって自分自身がどうしたらいいか困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化していたようです。私たちは、迷い惑う原因は、外にあり、他人のせいだと思ってしまいます。そのことが言葉の意味を変化させてきたのかも知れません。しかし、仏教では迷い惑う原因は、私の外にはなく、私の内にある煩悩であると説きます。「迷惑」と感じた時は、自己を見つめる仏縁かもしれません。
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